契沖は定家の後継を自任していたか

現代の国語学者も、その研究内容だけでなく、だれの跡目を継いでいるという自覚があるか?ということを表明できる媒体はあるか。周りもどう評価していたか、端的に示す票田のようなものは、やはり匿名でもよいので残しておきたい。「詠み人しらず」のように、匿名の中にも特定できるヒントがあればなおよい。

謝辞から読み解く人物関係と学史

謝辞、とくに学術書の謝辞は面白い。もちろん、科研費でどうしたこうしたというものではなく(それはそれで面白いのだが別の話)、「○○先生のご学恩が云々」「●●さんにはお世話になった」のようなあれである。その書籍執筆当時、どのような関係者が在籍していて、その中で取り上げられたのは誰であるか?という相関図を書いてみる。そこに、学問分野を重ね合わせることで、実に重厚な学史が見えてくるのである。これは、純粋な学史では振り返りがたい。やはり社会学者との連携で見えてくる、極めて学際的なものと言えるだろう。利害関係のない人がやらねば説得力が出ないのかもしれないが、そこはどう処理すればいいのだろう。

国語学史と社会学および民俗学

人間関係と性の自任は(明かされていないとしても)不可分であるが、国語学の発展にもそれは無関係ではない。学界では、一人の女性を巡って二人の男性が決闘まがいのことまでしたという噂も存在している。男女の中であれば後世にも(噂の形で)形継がれやすいが、いわゆる同性同士であれば、その関係性はまったく他から探ることもできないし、探ること自体許されないのが現状である。LGBTに関する差別が無くなり、日常的に男×男、女×女も色恋沙汰として語ることが再びできるようになったら、改めて人間関係に基づく国語学史の記述を考え直す必要が出てくるかもしれない。その時、秘録でも噂でもなんでも残っていることが望ましいが、現状ではそれを残すこと自体が差別とのも直結するものであり、この辺りはとても難しい。しかし、純粋に学問の歴史をたどる上では(たとえば男性教員同士の色恋沙汰は何もなかったということも含めて)とても大切な情報なのだろう。追って考えたい。

学問の歴史を記述するということ

国語学の歴史である国語学史は、従来、語学研究を綺麗なストーリーで繋いでいく記述が重視されてきた。しかし、近年は、語学以外の研究成果にも目を向けつつあるようである。学史に限らず現状の語学研究においても、従来は文学との乖離が自覚的に進められてきた面がある。もともと国語学は文学研究と不可分のものである一方、言語学の下位区分としての意識も育って久しい。概説書の類や諸大学の初学者向けシラバスを眺めてみれば、言語学の視点から日本語を捉えた日本語学の講義も目立つ(というよりも、その方が多い印象である)。学史研究は、「国文学」「国語学」「(言語学の下位区分としての)日本語学」等々の再融合を図る上でも極めて有効である、はずである。

 

現代の学問においても、人間関係の記述は重要である。人間関係は口伝と一部の(退職記念号や学術書のあとがきのような)エッセーに載せられるだけで終わるのがほとんどであるが、「なぜその分野を選ばなかったのか? それは○○先生がセクハラ気質で避けたためである」「○○さんと○○さんは恋敵の為にお互い重箱の隅をつついたような批判をしあっている」といった公にし難い(けれど多くの人が知っている)事例は珍しいことではなく、それによって学問の系譜に大きな影響があるのも疑いのない事実である。300年後に学史を描こうとした際、論文には表れていない要因をどのように探っていくのか。ツイッターのようなメディアも総覧することで、いわゆるビッグデータの中から国語学史を考えるようになるだろうか。

 

個人の記述、特に人間関係についての記述は、客観性の確保が難しいとはいえ多くの記述が残るに越したことはない。存命の人々の名誉を傷つけるようなことが無い(少なくとも訴えられるようなことがないように)しつつ、学問の系譜を記述するためだけにいかに人間関係を伝えていけるのか、ということは考えていかねばなるまい。向こう100年は誰も見ることができない、しかも個人がそれなりに簡便に記事を登録できる学史アーカイブのようなものができれば、個人の日記の集積とはまた別のベクトルで学史研究が楽しめるだろう。100年後200年後の国語学を見据えて、自分が見られないアーカイブに予算を付けることは至難の業であるし、セキュリティの問題、協力者の確保など問題は多い。